はじめまして。
心理カウンセラーの東条直子です。
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母親に届かない私の声
私の母親はピアニストでした。でも左耳がほとんどきこえていませんでした。
母親が小学校6年生のとき、風邪をひいて病院でもらった薬を飲んで難聴を発症したと聞いています。だから私が生まれた時には、すでに左耳がきこえない状態でした。特に、女性の高い声や音が聴き取りにくく、雨の日や天候が悪い日はいつも以上に聴き取りにくくなるようでした。
父親や兄のような太くて大きな声は比較的きこえるのですが、私は体が小さく、声も小さく高い声なので、私の声が母親に届かないことはしょっちゅうでした。
幼稚園頃。お昼寝から目が覚めた時に、部屋を見渡しても誰もいませんでした。
「お母さん」と何度呼んでも返事がありませんでした。不安だったのか、大きな声で怒鳴るように「お母さん!」「お母さん!」と何度も呼んでいました。自分の怒鳴る声に腹が立ってきて、泣きながら近くにあったティッシュを投げつけて「お母さん!」と呼び続けましたが、返事はありませんでした。
泣き疲れてぐったりしていると、どこかの部屋からでてきた母親が泣いている私をみて、「どうしたの?」と涼しい顔で声をかけてきました。私はイライラしていましたが、うまく伝えられず、母親もそれ以上興味がなかったのか、なだめようとすることもありませんでした。
そんなことはいつものことでした。
母親とお出かけをして、「ねえねえ、あれかわいいね」といっても、きこえていない母親はいつも適当に相槌をうってごまかしていました。
「今日学校でこんなことあったよ」と話しても、「すごいねー」「良かったねー」といつもパターン的な返答。
母親は、大学教授から「健常者でもピアニストになれないのに、あなたみたいな耳の聞こえない人がピアニストになれると思わないで。厚かましい」と言われながらも、ピアニストとして認められてきたことにプライドをもっていました。
そんなことも影響しているのか、「聞こえなかったからもう一度言って」
この一言が言えませんでした。
家族以外にも聞こえたふりをしていました。友人知人は難聴であることに気づいていましたが、初めて会う人からは話がかみ合わない面倒な人と思われているようなこともありました。
「聞き取れなかったんだったら、もう一度言ってって言ってくれたらいいのに」
「聞こえたふりをして適当に流さないで」
たぶん最初はこう思っていました。
でも、少しずつ「わたしの話には興味がないんだ」と思うようになり、自分には価値がないような気がしていました。
給食をひとり残って食べさせられ、強くなる「ダメな私」、「できない私」のイメージ
私の性格は、引っ込み思案で、いつも母親の後ろに隠れているタイプの子どもでした。
幼稚園では自分から先生や友達に話しかけることができず、リーダータイプの幼馴染が代弁してくれたり、守ってくれたりしていました。
小学校では6年間、学年で一番身長が低く、体重も軽く、小柄でした。
小学校2年生の時は、給食の時間が苦手で、いつも最後まで残って食べていました。
クラスの子たちは、さっさと食べて休み時間に外に遊びに行ってしまいます。
残すことは許されず、食べられないと言うこともできませんでした。休み時間が終わって、クラスの子たちが外から帰ってきて、そのまま掃除の時間になっても食べさせられていました。
同情して声をかけてくれる子たちが何人かいました。
泣くことは恥ずかしいことだと思っていたので、我慢していましたが、いつも心の中では「誰か助けて」と助けを求めていました。
心の中で助けを求めても、状況が変わることはありませんでした。
給食も食べられない「ダメな私」「できない私」と周りから思われている自己イメージが出来上がったように思います。
人前で話すことを求められ、フリーズ
みんなの前で話すなんて恥ずかしくてできませんでした。
授業中は存在を消していて、自分から挙手はしたことがありませんでした。
クラスの中の班ごとで、挙手の数を競いあうという決まりができたときなんかは、地獄でした。
自分が挙手をしないことで他の班に負けるので、同じ班のメンバーから強制的に挙手をさせられたこともありました。
厳しい先生が担任の時は、授業中にあてられてもこたえることができず、フリーズしていました。
自分の中では答えがあっても、正解をこたえなければいけない、失敗してはいけない、と強く思っていたので、声を発することができませんでした。
なんとか頑張って小さな声で答えても、
「え、なに?」
「そんな小さな声では聞こえないよ。もっと大きな声で言って」
さらに頑張って、少し大きめの声で答えても、
「え??」
と笑いとばされました。
いつも自分に自信がなく、何かに挑戦するということは皆無で、こんな自分が何かしたいと言い出したら笑われると思い、言えませんでした。
いつも人の目を気にしていました。
いじめられている現実を直視し、死んでしまいたいほどの気持ちが表出
小学校5年生の時、幼稚園からずっと同じクラスだった幼馴染とクラスが離れました。
さらに、学年で一番怖いという噂の女の子と同じクラスになりました。
ある日、登校すると、誰も挨拶してくれず、いつもと違う雰囲気を感じました。
嫌われないように常に人の目を気にしていたので、空気には敏感でした。
「あ、無視されている…」と気づきましたが、誰にも言えませんでした。
筆箱を隠されたり、笑いながら教科書をとられたりしました。
あるとき、担任の先生から、クラスみんなの前で、「〇〇さんに、いじめられてるの?」と聞かれました。
いじめっ子からは、「遊んでるだけだよね?」と強く言われ、笑いながら「うん」としか言えませんでした。
自分だけ何事もないようにふるまっていましたが、クラス全員がいじめに気づいていました。
クラス全員の前で言われることで、直視することを避けていた、自分がいじめられているという現実と、クラス全員が気づいているという現実を直視することになり、死んでしまいたいほどショックでした。
自分がいじめられているというみじめな現実を認めたくなかったのです。
正解だと思っていた「いじめられる方にも問題がある」という両親の考え
いじめられているという現実を認めたくないのには原因がありました。
家では、父親が会社での出来事を家族に話すときに、「いじめられるやつにも、問題がある」といつも言っていました。いじめられるのは、周りと同じことをしない人、協調的でない人、変わっている人…そんな人たちのことを馬鹿にしたような表情で話していました。
そんなとき、母親は何も言わずに聞いていたので、その考えが「正解」なのだと思っていました。
だから、自分がいじめられたとき、自分に問題があるとしか思えませんでした。
自分がいじめられていることを知られると、自分が普通ではないことを自他ともに認めることになるので、いじめられていることを認めたくなかったし、恥ずかしくて誰にも言えませんでした。
学校には行かなければいけないものと思い込んでいたので、なんとか学校には行っていました。
しかし、中学生になっても、このいじめっ子におびえ続ける日々でした。
環境が変わっても、変わらない孤独感と疎外感
高校は、同じ中学出身の子が少ない学校に進学しました。
その環境が良かったのか、それまでよりは楽に過ごせました。
同じクラスに友達もできました。
でも、友達との距離感は普通の人とは違うと感じていました。
誰からも悪口は言われないけれど、グループでいても、自分だけ孤立している感覚がありました。
私の入っていない何人かで遊びに行った話題がでていることもありました。
「え、何の話?」
「私だけ誘われてない…?」
と思って、内心は不安、焦りでいっぱいでしたが、怖くて聞くことはできませんでした。
おどけたキャラで、笑ってはいましたが、孤独感、疎外感を感じていました。
何かに挑戦したくても
「こんな自分が言うと笑われる」
「どうせ無理だと言われる」
という思いは続いていて、進学についても自分の希望を言うことができませんでした。
いつも何かをするときは、周りをみて、同じようにしていました。
助けを求められず、取り残される不安
大学はたまたま合格した心理学部に進学することにしました。
大学では、普通から外れることが不安だったので、積極的にクラスの子に声をかけ、一緒の授業にでたり、一緒のサークルに入ったりしていました。
「なんで自分はみんなと同じようにできないのか」
「みんなと同じようになるにはどうしたらいいのか」といつも問い続けていました。
「普通」になるために必死でした。
でもやっぱりどこにいっても、親密な関係はできませんでした。
同じ授業を受けたり、一緒にご飯を食べる友達はできましたが、休日に遊びにいったり、本音を話せる関係の友達はほとんどいませんでした。
アルバイト先でも、同年代の子がたくさんいましたが、仕事以外で会うことはありませんでした。
大学の友達の、アルバイト先で知り合った子たちと遊びに行った話を聞いているときは、羨ましさと、なんで自分は友達ができないのかという思いでいっぱいでした。
3回生になると、周りは就職の情報を集めたり、実際に活動し始めたりして、焦りました。
友達が少ないので、就活情報が入ってこないので、さらに焦るという悪循環。
焦りを他人に知られてはいけないと思っていたので、自分から情報を求めることもできませんでした。
特にしたいことがあるわけでもないし、普通の人はどんなところに就職するのかを考えてもわからない。同じゼミの子が大学院を目指していて、就活よりも情報を集めやすかったため、心理系の大学院へ進学することにしました。
感情をストレートに表現する留学生に出会い、自分が感情を押し込めていたことを知る
大学院に進学すると、まわりはしっかりとした目的をもって入学していました。
でも私には目的も見通しもありません。
歓迎会の時の自己紹介では、「いつも何かに追われているような私です」と冗談交じりに話した記憶がありますが、本心でした。
大学院は社会にでてから入学する人たちもいるので、年齢も経験も幅広く、考え方も多様でした。
その中に、ひとりの中国人留学生がいて、しょっちゅう誰かと喧嘩をして、怒っていました。
気に入らない言動があると怒り、「ひどいことをされた」とわめいていました。
その子のことをよく思っていない人たちがいましたが、本人は全く気にしていません。
私には、その子が光り輝いて見えました。うらやましい。
「なぜそこまで怒りを感じられるのか」
「なぜ自分を責めるのではなくて、他人に怒りを向けるのか」
「なぜ人から嫌われても平気なのか」
わからないことだらけでした。
でも一つわかったことがありました。
それまで私は他人に対して怒りを感じたことがなかったのです。
異常なほどの自尊心の低さを自覚
言葉にはできないもやもやした感情はたくさんありました。
「人の悪口を言わなくて優しいね」
「〇〇ちゃんの同じ話をいつも聞いてあげてて優しいね」
といわれたことがありました。
でも優しいのではなくて、ただ怒りを感じなかっただけ。
自分以外の人たちは、自分よりも優れているから。正しいから。
「人から嫌味をいわれるのは、自分がおかしいから」
「批判をされるのは、自分が間違っているから」
「いじめられるのは、自分が普通じゃないから」
そう思い込んでいました。
だから他人に怒りを感じることがなく、いつも自分を責めてばかりいました。
誰かに「あなたは悪くない」と慰められても、まったく私の心には響きませんでした。
自分以外のみんなが正しくて、自分は間違っているから。
その中国人留学生に、反論できるほど自信があることに気づくと同時に、自分に異常なほど自信がないことに気づかされました。
自尊心が高い人は、ちゃんと怒りを感じるんだ、と。
私は、他人の問題もすべて自分が背負っていたのです。
「あなたのそういうところがダメなんだよ」と教授に大声で怒鳴られ、公開処刑された気分に
たいした目的もないまま進学しているので、修士論文のテーマがなかなか決まりませんでした。
この時もまたいつものように周りをみて焦っていました。そしてテーマを決めて書き始めてもうまく書けない。
それぞれ目的をもって進めている同期には言えませんでした。
指導教授には定期的に相談する時間が設けられたため、相談していました。
しかし、できないことを隠すことに必死で、うまく相談できませんでした。
焦りから、身体が緊張し、頭痛、眠れない日が続き、生理も止まってしまいました。
なんとか書き上げて2年で卒業しなければいけないと思い、必死でした。
提出間近となった12月、指導教授のところに何度目かの相談に行くと、根本的なところを指摘されました。
「え、なんで今ごろ、こんなことを…」と頭が真っ白になりました。
さらに、「僕の論文じゃないから知らない」と教授からいわれ、
「見捨てられた…」とかなりの衝撃を受けました。人から嫌われないように、見捨てられないように、普通の人にみえるようにと必死で生きていました。
さらに数日後、その指導教授の授業でのこと。
「あなたのそういうところがダメなんだよ!」と大声で怒鳴られました。
私の発言が原因でした。
同期がいる中で公開処刑のようでした。
同期からは「かわいそうな人」と見られているような気がしました。
「やっぱりこの人はダメな人だ」と思われているようにも感じました。
恥ずかしくて、死んでしまいたいと思いました。
「他人からの評価=自分の評価」である自分には、絶望的でした。そんな状態で論文を仕上げられるはずがなく、もう一年延ばすという選択しか考えられませんでした。
さらに、家族から「恥ずかしい人生」「人間のくず」と言われ、混乱
そして、絶望しながら、親にもう一年延ばしたいと伝えました。
やさしい言葉を期待していたのかもしれません。
しかし、父親からは
「2年で卒業できないなんて傷がつく。お前は結婚はできない」
「一生誰にも言えない人生で困るのは自分」といわれました。
「え、結婚できない…?」
「え、誰にも言えないこと…?」と混乱しました。
そんな人生を生きるなら、死んでしまいたいと思いました。
他人から恥ずかしいと思われている人生を生きられる自信はありませんでした。
兄からは、卒業を先延ばしした同期の「人間のくず」について長時間話されました。
「お前も、そんな人間のくずになりたい?」と笑っていました。
その横で母親も笑っていました。
その時の私は、絶望、情けなさ、恥、悲しみ、焦り、不安といった感情で混乱していました。
その場にいられなくなり、実家を飛び出しました。
一人暮らしの家に戻り、死ぬしかないと本気で思っていました。
誰もわかってくれず、「死んだら楽になる」という思いが頭を駆け巡る
「こんなに頑張ってきたのに…」
「自分よりも周りを優先させてきたのに…」
「家族の価値観に沿って生きてきたのに…」
それまで自分が大切にしてきた生き方を全否定されたような気がして、ショックでした。
おそらく、その時自分の中で一番大きかった恐怖は、明るい未来が見えないことでした。
何度も、「結婚もできない、他人に言えない人生、人間のくず」という言葉が頭に浮かびました。
この時、家族に対して、非常に強い怒りを感じました。
自分を責めることも、強い怒りを感じ続けることもつらく、
「死んだら楽になる」との思いが何度も頭の中を駆け巡りました。
強い怒りから家族に電話やメールでひどい言葉を伝えたこともありました。しかし、父と兄からは自分の価値観を押し付けられるばかりで、母親は私の怒りを受け止められなかったのか、何を言っても笑っていました。
そんな家族にも人生にも絶望しました。
自分のことをわかろうとしてくれる人がいないことがショックで、感情が麻痺しました。嬉しいことも楽しいことも、つらさも何も感じなくなりました。廃人のようでした。
このとき、病院を受診していたらうつ病と診断されていたと思います。
異常な状態にあることはわかっていましたが、助けを求められませんでした。
現実を見て、自分に問いかけることででてきた悲しみと怒り
しばらく無気力な日を過ごしていると、自分の周りにいる先輩たちや、知人たちの姿が浮かびました。数年かけて卒業していった先輩や、型通りではない道を進んでいる人たち。
「あの人たちは、恥ずかしい人生?失敗者?人間のくず?」と何度も自分に問いかけました。
私のなかでは、娘の未来を決めつける父、人間のくずと呼ぶ兄、それを笑顔で見ている母親のほうが、人間のくずに見えました。
その時、再びものすごく大きな悲しみと、怒りがこみ上げてきました。
そんな人たちから何を言われてもいいと思いました。
人間のくずでもいい、自分の見えているものを信じて生きていきたい、信じていくしかないと強く思いました。親の価値観や考えが絶対だと思っていた自分。
怒りを表現するどころか、感じることさえも悪いこと、恥ずかしいこと、下品だと教えられてきました。
「明るくて、頭が良くて、友達が多くて、すべての人から好かれている人間に価値がある」
こんな親の価値観に縛られていることに気づきました。私の価値観は親の価値観でした。
母親との葛藤から、再び強い怒りが表出
なんとか3年で卒業し、心理系の仕事をすることになりました。
家族に対してはいろんな感情がありましたが、ひとりで生きていく自信がなかったので、自分が心的な距離をとることで、以前の関係に戻りました。
凝り固まった価値観で生きている父親とプライドの高い母親。他人との間で対等な関係を築くことができない母親は、人前では穏やかで物わかりのいいひとを演じていましたが、家ではいつも他人の愚痴ばかりでした。
母親が不満を吐き出すことで楽になれるのであればと思い、聞き役になっていました。
そんなとき、突然、父親が多額の借金を抱えることになりました。
母親の不満、怒りは父親には向けられず、私への攻撃に変わりました。
笑いながら私を侮辱するようになりました。
同時に私への同情も示し、高価なアクセサリーを私に購入するようになりました。高価なものを買い与え、かわいそうな娘を救うことを、自分の存在意義にしているようでした。
母親は完全にコントロールを失っていました。
ある時、母親の言動に耐え兼ね、「しんどい」と家族に漏らしました。
すると、父からは「お母さんを悪者にするな!お前が悪い!」、兄からは「買ってもらってるんだから我慢しろ!」といわれました。
その瞬間、強い怒りを感じました。この頃には、家族との距離が近いこと、家族の病理に気づいていました。
「この家にいることで自分がダメになる」と感じました。
自分が崩れていく不安を感じたため、家族から離れることを選択しました。
精神的な自立を目指して助けを求めたカウンセリング
家族に頼らず、ひとりで生きることに不安があったので、カウンセリングを受けることにしました。
心理の仕事をしてはいましたが、自分がカウンセリングを受けることに抵抗がありました。
カウンセラーが他人に相談することへの抵抗と、自分の弱さを他人に見せることで、自分が崩れていく不安がありました。
しかし、限界に達していたため、抵抗を感じながらも、自分なりに家族を理解しようとしてやってきたけど、限界に達したこと、家族の価値観から離れて、自分の人生を歩んでいきたいことなどをカウンセラーの先生に話しました。
先生からは、「つらい」と心情を吐露しても、「我慢しろ」といわれませんでした。笑われませんでした。かわいそうな目でもみられませんでした。
「あなたはそう感じたのね」
「つらかったね」
と、自分の怒り、悲しみ、悔しさのネガティブな感情を否定することなく受け止めてくれました。自然に涙がでてきました。人前で泣くことに抵抗がありましたが、止められませんでした。聴いてもらえると、強い怒りがスーッとおさまっていくのを感じました。
話すだけでこんなに楽になれるんだと実感しました。
楽になると、自分がどう生きていくか、どんな環境が自分に合っているのかなど未来に目を向けられるようになり、自分の生活も安定しました。
母の死で抱えた罪悪感
家族から離れて2年後、母親が病死したことを、親戚を通じて知りました。
家族や親戚から責められるんじゃないかと不安でした。罪悪感もありました。
でも同時に母親が私を攻撃している視覚的なイメージも浮かんでいました。
母親は私を攻撃しながらずっとずっと生きていくと思っていたのに、あっけなく死にました。
どうしていいかわかりませんでした。
カウンセラーの先生に会って、「母親が死にました…」とだけしか言えませんでした。
その時も先生に支えてもらうことで、いろんな感情を抱えながらも、なんとかそれまでと変わらない日々を過ごし、そして、家族と会い、和解することができました。
生きづらさを抱えた人を救うカウンセラーを目指して
現在は父親、兄との関係は良好です。
家族の価値観が揺さぶられるような危機的な状況になると、以前と同じように家族の病理が露呈するかもしれません。
でももう自分が変わっているので、巻き込まれない自信があります。
もし、カウンセリングを受けていなかったら、家族の感情に巻き込まれて自分の人生を生きられなかったと思います。いつまでも家族を責めながら、自分も責め続けていたと思います。
強い感情を抱えているときは、ものすごく苦痛です。自分が壊れていくんじゃないかという不安も感じます。
でも、そんなときに、普段はわからない自分が求めているもの、望んでいるものが見えます。
大事なのは、感情が大きく揺れた時、それまでの自分なりの対処ではうまくいかなくなったときに、どう向き合うかです。自分の感情を無視しないで、望みを聴いてあげることです。
私には、怒りを感じることが必要でした。
自立するには怒りを感じることが必要でした。
現状が変わるときには、不安、恐怖、怒りといったネガティブな感情がでます。
ネガティブな感情は変化を促します。
カウンセラーに相談することで生きやすくなった私が、今度は過去の自分のような人を救いたいと思うようになり、家族間の葛藤や負の感情で悩んでいる人たちへのカウンセリングや、認知行動療法について本格的に勉強するようになりました。
負の感情を受け入れることで理想の未来を近づけるカウンセラーとして出発
これまで、心理カウンセラーとして、病院やクリニックで、薬物療法では治癒できない、うつ病や不安症、パニック症、発達障害などのさまざまな症状の方に寄り添い、カウンセリングをしてきました。
そこで、カウンセリングを受けることで、症状が軽減したり、家族やパートナーの関係が改善し、生きづらさを克服でき、人生が好転する方たちをみてきました。
そういった経験から、医療機関を受診していない方などに対しても、もっと幅広くカウンセリングを提供したいと思い、心理相談ルームを開設しました。
現在は、自分の受けたカウンセリングを基に、アダルトチルドレン、愛着障害、トラウマ、家族との関係やパートナーとの関係でお悩みの方、怒りの感情でお悩みの方など、生きづらさを抱えている方たちへのカウンセリングを行っております。
人に弱みをみせる恥ずかしさよりも、幸せになりたいという気持ちが大きくなったとき、
助けを求めることができたとき、自分が変わる覚悟ができたとき、人はいつでも変われます。
100%あなたの味方をして、変わるためのサポートをさせていただきます。